原作読んだ時あまりの底辺突き抜けっぷりに吐き気を催した「愛がなんだ」、映画はあれよりずっとマイルドになっているので悪く言えば観た後何も残らない感じになっている。
テキトーなあらすじ
テルコは友人の結婚式の二次会で知り合ったマモちゃんのことが好きだが彼女にはしてもらえない。
原作のヤバいところは社会的に不安定な立場にある主人公が、特に将来のことも何も考えられない根無し草みたいな男に振り回されており、その男にかまけるあまり仕事をクビになり、おりると思っていた失業保険はおりず、次の仕事はアルバイトをする羽目になり読者にとってはお先真っ暗で恋愛どころの騒ぎじゃないのにこの底辺に特に危機感を覚えるでもなく甘んじているところなんだよ。この子すごくない? 社会生活を送れない病気か何かだと思う……。
なんで映画の方がここのところの「底辺の泥を啜って生きている感」がないかというと、映画だと失業保険がおりなかった描写がないというのと、男のせいで会社の仕事が疎かになり、厄介者扱いされているような描写が薄いんだよね。淡々としている。
しかも他の女に贈るためのジャンポールエヴァンのチョコレートを買いに行かされる描写もない(作中で明確にブランドが明かされているわけではないけれども新宿伊勢丹で洒落ているチョコ専門店、ジャンポールエヴァン以外にない)。
実際テルコにとってこの仕事というのはそこまで人生において重きをおく対象じゃないと思うので、ある意味テルコの感性に近い描写の仕方なのかも。
加えて原作の方は私の生活圏が舞台(四谷とか神楽坂の辺り。よく飯田橋で待ち合わせを……)なので臨場感ありすぎて辛かった。それはもう四谷のオープンテラスのカフェって言ったらPAULかな〜とか思うくらい。でも映画は……ロケ地どこよ?ってくらい場所がわからなかった。
この主人公の悲壮感のなさが逆に不安を煽ってくる。
(私は自分の人生他人に振り回されるのは本当に御免だなと思うタイプだが)この子は振り回されることを、「自分がやりたくてやっていることだから」と言って振り回され続ける。
こういう子私の周りにもいるけど(失業するほどではない)本人にとってはそれって自然なことなんだよね。よく言えばホスピタリティのある……。
一方で葉子は自分の母親のようになりたくないと思うあまり、嫌いな父親と同じような振る舞いを結果的にはしてしまっている。
テルコはテルコで病的だけど葉子も葉子で病的な気がする。
でもこの優しくもなんともなく、うまくいかなくてもどこかで折り合いをつけなくてはならない感じが、最高に角田光代っぽい。