原作を読んだことがあるので、映画の評判がよいことを知っても観に行かなかったんだけど、Netflixで公開されていたので観て、これはすごい映画化だな、と感じた。
ところで私門脇麦に似ていると言われたことがあって、この映画みて言ったのかなと思うくらい髪型と服装がそっくりでちょっとびっくりしたしアニエスのカーディガン着てるのみた時は「私じゃん」と思った。人畜無害そうなコーディネートに突然テイストの異なるハイブランドバッグというところまで含めて私っぽい。しかもフリヴォルネックレスもフルトンの傘も持ってる、もう無理笑
小説では、共感されなさそうな価値観も描写されていたが、そういうところはバッサリカット。
親族が集まる場で結婚相手の話をされたことがない女性がいるだろうか、いやいない(反語)。華子が仕事を辞めたことを歓迎する祖母の発言も、美紀が大学進学することをよく思っていない父の発言も、おそらく意図的に省かれている。
まず……まず驚いたのが華子の姉・麻友子のバッグ。
原作ではセリーヌのラゲージを持っている。映画ではブルガリのセルペンティだ。
これがすご……すごくない……?
小説では麻友子の性格が詳細に書かれる。麻友子は高い車を次々と乗り換え、離婚した夫にもらった六本木のマンションに住んで派手な暮らしをしている美容皮膚科医だ。セリーヌのラゲージを持っている人に派手なイメージはないが、女が働くことをよしとしない祖母に眉を顰められながらも自分で稼いだお金で買ったバッグの描写としてセリーヌのラゲージは相応しい。しかし映画ではその派手な生活のことなどは描かれないので、派手好きなところをあらわしつつ、親から受け継いだとも思えないセルペンティなのだろう。対して華子のシャネルやエルメスなんかは明らかに親のお下がりである。こだわりゼロ。
美紀のバイザウェイやカルティエのホーボーバッグは社会人がちょっと頑張れば買えるお値段。ここのグラデーションがすごい。フェンディはフェンディでも絶対そこはピーカブーであってはならない。これはもう女性監督だからなのか? 原作もハイブランドが時折出てきたが、そちらは階層の説明に過ぎない気がした。映画ではブランドが、階層のみならずキャラクター描写の説明として機能的に使われすぎているくらいだ。
原作では「VCAのロングネックレス」なんて言われてもピンとこなかったが、映画を見てるとそれもおさがりだったのだろうと思える(ちなみに映画にでてくるのはフリヴォルなので自分で選んだか、「華子にはこれが似合いそう」とか言われて買ったものだろう)。
次に、ラストシーン。
小説では離婚後の華子と幸一郎が偶然出会い、「あとでお茶でも」と言った後本当にお茶をする。そして会話をする。
映画はコンサートの最中、両側の階段に立つふたりが見つめ合うだけだ。しかし見つめ合うだけで小説でいうところの最後全部の意義が伝わってくる。もっと言うとこの二人の会話に相当するところは結婚生活の中にある。幸一郎の言った「夢なんかあるの?」とか、華子が離婚前に美紀と話して帰ってきたあとの短い会話「まつげそんなに長かったっけ」「あの時話した映画観た?」がそれに相当するのだろう。小説の幸一郎の若干モラハラっぽさがある描写はなくなっている。幸一郎もまた圧力に息苦しさを感じていることを結婚生活の中で吐かせてしまったことは残念な気もするが、この時の華子には伝わらなかったのだと好意的に解釈しておこう。
映画はしゃべりすぎず、説明しすぎず、かといってわけわからなくもならないちょうどいい塩梅で視聴者に委ねられる。
小説は華子と美紀が会話しすぎていて、ふたりの関係は軽く言えば愚痴友達みたいになっていたが、映画ではこのふたりに階級を異にしていても共に東京でもがく者としての連帯や共感があるのだと感じられる。シスターフッド。
小説についた贅肉を削ぎ落としまくって映像と俳優の演技に描写を委ねた映画化大成功例だと思う。
でも私は今27なので冒頭の会食シーンで涙が出そうになったし胃が痛くなった。
ちょっと前に父が親戚の家に行ったら私の結婚の話になったらしく、「詳しくは知らないけど彼氏がいるっぽい」と言っておいたよと報告してきた。こういうのって遠隔攻撃もあるんだ〜と驚いていたらその場にいなかったはずの別の親戚には「私に結婚を考えている彼氏がいる」と伝わっていた。恐ろしい伝言ゲームだ。怖い。こんな目に遭わなくて済むようになるなら誰でもいいから早く結婚したい。華子がよくよく吟味しようとしなかった気持ちがよくわかる。というわけなので独身女性は冒頭で華子の焦りが伝播して辛くなると思う、メンタルつよつよの時に観てください。