「推しの子」6話の炎上騒ぎ見てて、私が常々感じている「実話ベースのエンタメ」について思いを馳せたのでつらつら書きます。
「実話ベース」の映画に対して複雑な思いというのは、感動系ならいいけど、加害者と被害者がきちんといて両方が存命の場合、映画化すること自体が犯人にとっての勲章になるのではないかとおもうわけ。
実際の事件、それがセンセーショナルであればあるほど映画の題材になりがちだけど、
実際自分が凶悪な事件の犯人だったら、自分の起こした事件のことが映画になるの誇らしくない? 多分あの世で自慢するわ。
アメリカン・アニマルズに出演していた犯人たちだって、どこか誇らしげだったし、俳優とツーショットなんか撮ってたし、私だったら「俺の起こした事件って映画になってさ〜、俺の役をバリー・コーガンが演じたんだぜ。まっ俺も出たんだけどね」って死ぬまでいう
ポン・ジュノの「殺人の追憶」は未解決事件題材の映画だったけど、後々犯人がわかって、犯人はこの映画を観ていたらしい。ゾディアック事件の犯人もゾディアック観てると思う、知らんけど
実際の事件を題材にする時に誰にどこまでの許可を求めるものなのか知らないけど、関係者がOK出しても、やはり犯罪者の勲章になりうるような映画を撮ること自体、どうなんだろうと思っている。小説でも映画でも、エンタメになると広く色んな人に知られるだろうが、娯楽作品になる以上ストーリーと演出が存在してしまい、それは事件そのものではない。私は犯罪系ドキュメンタリーが好きだが、多少「他人の悲劇を娯楽として消化している」と感じる。
一方、「推しの子」は実在の事件を題材にしたわけではないが、想起させるものではあったと思う。Too Young To Dieは、たまたま公開直前に似たような事故が現実で起きた時批判を寄せられるよりも先に公開延期した。まああれ結構不謹慎よりだし……。
バス事故も大きな事故だったし、あの事故は胸を締め付けられたので私は数年後でも思い出した。
多分6話を観て木村花さんの事件を思い出す人は今でもいると思う。ニュースになったし、私もテラスハウス観てたら思い出したかも。
でも、木村響子さんと彼女に賛同する人たちは、いつまで関係者っぽい人たちに配慮し続けることを望んでいるのだろう。というか、どう配慮してほしいのだろう。
リアリティショーは今でもあるし昔からある。海外で配信することがあったらその国の自殺者の遺族に配慮しなきゃいけないのか? これから先国内で同じことが起きたら配慮しなきゃいけない人が増えるのか? それとも流す前に注意喚起を出す?
ラスト・ナイト・イン・ソーホーでは予告がおしゃれプロモーションで、性暴力に関する描写があることを、観に行った人がわざわざツイートしてくれていた。
ザ・バットマンでも水害シーンがあることを心配して注意喚起しているひとがいた。あれ公開日が3月11日だったから、余計にプロモは気を配らなきゃいけないことだったと思うけど、結局後からワーナーが注意喚起をしていた。東北出身の人と行ったのでそれとなく大丈夫か尋ねた思い出。
「フィクションでも問題提起できるはず」と木村響子さん自身が言うように、何もかもちゃんとフィクションなのだ。※作品は、問題提起のつもりはあまりなかったのではと思うけど…
作中の出来事は、事件の丸パクリとは言えないほど異なっている。
観ていないものについて制作サイドに話聞きたいって言われても話すことなんかないよね。でも制作側はなんか反応するのかな。このレベルの言いがかりにいちいち対処しないのか、騒ぎになったからには何か発表するのか。
単に”想起させる”ものに関してどこまでの配慮が必要なのか。想起するかどうかは本人の思い入れに強く影響されるだろう。
行きすぎたら誰も求めてない配慮になると思うし、しなかったら無神経になると思うし、お気持ち表明がかんたんで、発信者によっては膨らみがちだからこそ難しいよね。